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JAとは

 JAとは、Japan Agricultural Co-operatives(日本の農業協同組合)の略で、1992年4月から 新しい農協像を表す愛称として使用されています。JAあぶらんど萩の正式名称は、あぶらんど萩農業協同組合です。


農業協同組合とは

 農業協同組合は、人々が連帯し、助け合うことを意味する「相互扶助(そうごふじょ)」の精神のもとに、 組合員農家の農業経営と生活を守り、よりよい地域社会を築くことを目的としてつくられた協同組合 で、非営利団体のため、利潤の追求を目的とする株式会社とは根本的に異なっています。

 この目的のためにJAは、組合員の農業経営・技術指導や生活についてのアドバイスを行うほか、 生産資材や生活に必要な資材の共同購入を行ったり農産物を共同で販売したり、農業生産や生活に必要な共同利用施設の設置などを行っています。

 また、貯金の受け入れや融資を行う信用事業 (一般でいう銀行)や万一の場合に備える共済事業(一般でいう保険)などさまざまな事業や活動を行っています。

 JAの組合員資格(一般でいう株主)には、正組合員(農家)と准組合員があります。このため、農家でない人でも、それぞれのJAで定めた加入手続きに従い、出資金を払い込めば准組合員として組合員資格を得てさまざまな事業を利用することができます。


農業協同組合の父「品川弥二郎」について

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品川弥二郎誕生地(萩市椿東)

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品川弥二郎の銅像(左)
(市・道の駅萩往還公園内)

 天保14年(1843)9月29日、品川弥二郎は、長門の国萩の東、松本船津という所に生まれた。

 父は、長州藩軽卒の品川弥市右衛門、母は、池田六左衛門の長女満津である。弥二郎の祖父、品川弥市兵衛は、須佐の中屋(現在の萩市須佐堀田の品川家)からの養子である。  安政4年(1857)9月、弥二郎は、松下村塾に入塾した。吉田松陰が亡くなった後も塾の勉強会のメンバーで、のち攘夷血盟に加わり、英国公使館焼討ちや蛤御門の変などに参加。

 明治政府が本格的にスタートすると、弥二郎は明治3年(1870)、戦争視察の命令で欧州に派遣されるが、そのまま留学を希望し、ロンドンに留まった。その後も軍事を学ぶためという名目で兵部省からドイツに派遣されたが、次第に政治や経済に注目するようになる。そして産業発展には協同組合が大きく役に立つと考え、協同組合について様々な知識を学んだ。  

 日本を出て7年後、弥二郎は帰国した。その後は、日本の農業振興に携わり、明治14年(1881)には農商務大輔(次官)となった。またドイツでの長い留学経験を生かし、後の独協大学の前身である独逸協会を設立し、ドイツの学問普及にも努めた。  明治24年(1891)には、第一次松方正義内閣の内務大臣となり、農村に協同組織の必要性を感じ、平田東助らとドイツのシュルツェ デーリッチの信用組合に範をえて産業組合を構想。明治33年(1900)に公布された産業組合法によって農業協同組合の母体である産業組合が設立された。現在、弥二郎は農業協同組合の父と言われ、山口市湯田に建立されていた「品川神社」を平成9年(1997)、山口県JA会館敷地内に移し、この功績を称え弥二郎が祀られている。  

 晩年の弥二郎は、松陰の遺志を継ぎ、維新への戦いで亡くなった志士たちを祀るため、京に尊攘堂を建て、毎年祭典を行った。明治33年(1900)2月に弥二郎が亡くなると、尊攘堂とその所蔵品は、京都帝国大学(現京都大学)に寄贈された。尊攘堂は、平成10年(1998)に国の登録有形文化財に指定されている。

 京とは別に、「故郷の長門にも尊攘堂を建てたい」と考えた弥二郎は、長府の桂弥一にそれを委託し、昭和7年(1932)、弥二郎の三十三回忌に起工式を行い、翌年10月、長門尊攘堂(現下関市立長府博物館)が完成した。その場所は、幕末に高杉晋作が挙兵した長府功山寺境内である。  

 吉田松陰が生前、弥二郎に対して言った「弥二は、人物を似て勝り、而して学問称わず」の通り、生涯、幕末維新で苦労をともにした同志と師の教えを忘れることなく、国のために生きた人であった。


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